小泉 今日はどうもありがとうございます。ずっと福間さんにお話をうかがいたくて、知り合いの編集者の方など自分の少ないコネクションをたどっていたのですが、連絡先がわからない。そこで福間さんのTwitterをさかのぼっていたら、どうやら福間塾なるものをやっているらしい。福間塾というのはもともと国立市主催で福間さんがおこなっていた「詩のワークショップ」から続いているものらしい、というところまで調べて、国立市に連絡したというわけなんですよ。
福間 たいていはさ、思潮社に連絡するよね。詩人のことっていうのは、だいたい。
小泉 え、そうなんですか……!
福間 普通、ね(笑)。
国書刊行会から『ビリー・ザ・キッド全仕事』が出た頃
小泉 マイケル・オンダーチェって、私たぶん世界で一番好きな作家なんですけれども。
福間 うん。
小泉 いろいろな方が訳しているじゃないですか。どれも素晴らしいのですが、私は初期の、『ビリー・ザ・キッド全仕事』『ライオンを皮をまとって』など、福間さんが言うところの「詩を内包する小説」が特に好きで。だから誰に訊くって言ったら福間さんがいいだろうと思って国立市に問い合わせをしたりしていたのですが、やっと福間さんにつながった!と喜んでいたら、ちょうど『ビリー・ザ・キッド全仕事』が白水社Uブックスから復刊するというタイミングだったんですね。
小泉 1994年に国書刊行会から出版されて、現在は絶版になっていた『ビリー・ザ・キッド全仕事』が白水社のUブックスから出るというので、びっくりました。うれしくて、興奮しました。国書刊行会から出た単行本から20年以上も経っているんですね。
福間 はじめ、僕がオンダーチェを知る前に、高山宏とか加藤光也とか風間賢二さんが紹介していた。『ビリー・ザ・キッド全仕事』は、詩が多いから僕がやったらっていうふうに話が来て、僕はそれからから読んだ。
小泉 福間さんはそのころはすでに詩人として?
福間 そう。で、そのころは都立大学の英文学の教員だったのね。高山宏とか加藤光也と同僚だった。僕は詩が専門だった。でも『ビリー・ザ・キッド全仕事』をやらないかと言われてから初めてオンダーチェを読み出した。
小泉 これ、すごく大変だったのではないかと思うんですけど、最後のあとがきに「わからない箇所を人に聞いてまわったし、」と書いてあって。福間さんがオンダーチェの文章もってくるところを想像して、思わず笑ってしまったというか。聞かれたほうも大変だなあと…人に聞いてまわったって……聞いてまわったんですか?
福間 そうですね。まあ、自分で調べればいいのにね(笑)。『ライオンの皮をまとって』と対照的なんだけど。『ライオンの皮をまとって』の頃は、インターネットが発達していて。でも『ビリー・ザ・キッド全仕事』の頃はワープロを使っていたけどパソコンはやってないっていう時期だと思うんだよね。だから本当に専門的なことって、人に聞かないとわからないようなことがあったけれども、今は、『ビリー・ザ・キッド全仕事』で言ったら拳銃のことだってネットで調べればどんどんわかるようになって。
小泉 『ライオンの皮をまとって』はインターネットでいろいろ調べられたと、あとがきにもありましたね。
福間 そう、ちゃんとあとがきで紹介しているけど、ネットで見ると出てくる時代になったので、翻訳の「調べる」っていう意味の部分ではずいぶんやりやすくなっている面があるんだけど、『ビリー・ザ・キッド全仕事』の頃はまだそれ以前という感じで。ただ、これについては、ビリー・ザ・キッドの映画がたくさんあって。たぶん、オンダーチェは、もしかしたらアーサー・ペン監督でポール・ニューマン主演の『左きゝの拳銃』をベースにしていると思うんだけど。映画としてはね。でも他にもたくさんあった。
福間 ペキンパーの『ビリーザキッド 21歳の生涯』とか、これはボブ・ディランも出ていた。
福間 他にもたくさんビリー・ザ・キッドの映画があったんで、映画を観て、そうするとチザムとかっていう人物も出てくるしね。それを観たことでけっこう助かったかなと思いますけどね。
テキストが持つ「意味」と「含み」
小泉 ものを調べるということ以外、いわゆる「詩を内包している小説」を訳すという、そのこと自体の難しさはいかがでしたか。
福間 そうですね。やっぱり詩の部分は、この作品だからっていうことじゃなくて「意味」として100%きちっとわかるっていうことはないかもしれないよね。だけどそれに対して、テキストが持っている「含み」が翻訳にもできるだけ出るようにしたいということで。今、詩の翻訳はとても難しい段階に入っていて、あまりいい訳がなかなか出ていないと思うんだけど、それは意味がわかることよりも、テキスト全体が持っている力っていうか、それを日本語に移し替えるっていうことが、なかなか大変なことだから。『ビリー・ザ・キッド全仕事』についても、意味は完全にわかりきっていないけれども、たぶん英語でネイティブが読んでも、はっきりしないんじゃないかなっていう要素を、相当、詩の部分が持っているので、それをどう扱うかだよね。なんか、訳してしまう、意味としてはっきりしてしまうよりは、詩として力のあるものになったほうがいいとは思ったんだけど。それはけっこう気分的なことなので、今回の新版のあとがきに書いたけど、初稿を出したあと、真っ赤にしちゃったの。なんか違うな~と思って。
小泉 それはガラっと変わったりするんですか? それとも細かいチューニングのようなもの?
福間 う~ん……、ちょっとずつ直していくと変わってきちゃってね。だいたいはその正確さが足りないということと、それから、オンダーチェの詩の感触がね、どうなのかっていうことで、これを訳した後に、オンダーチェのここまでに書いている詩をさかのぼって読んだからね。それでだんだんこういう感じなんだなってわかってきたところもあって……。
小泉 私、ずっと海外文学の翻訳作品を読んできている中で「詩が読めていない」っていう自覚がずっとあって。
福間 ああー。
小泉 たとえば、小説の中に詩がちょこっと出てきたりすると読み飛ばしたりして。それは、今、福間さんがおっしゃったことにあてはめて言えば、小説の中に詩が出てくるとする。読んでいる私は、そこに何らかの「意味」を読み取ろうとして、意味的にそんなに重要じゃないな、と思うと飛ばしてしまう。それって、そこにある「含み」を、とらえきれていないわけですよね。どうも自分には詩を読む能力が備わっていないんじゃないかとずっと思っています。でも、『ビリー・ザ・キッド全仕事』を読んだときに、「詩……詩が読める!」みたいな感動があって。読めるとなると、すごい!ってなって、グサグサ刺さる感じで。でも、じゃあ、他の詩を読んでみようと、たとえばウォレス・スティーヴンズ。オンダーチェが影響を受けたというので読んでみるかと。
福間 ああ、そうだよね。
小泉 でも、あんまり読めなかった、みたいな…。詩を読む筋肉が発達していないのかなと思うんです。詩筋と名付けてみたんですけれども。詩筋、普段使いませんね。でも、オンダーチェはなぜ読めるんだろう?と。福間さんに訊きたいなと思ったのは、詩人として、あるいは詩を教える先生として、オンダーチェが普通の詩人と違うところ、オンダーチェの詩に特徴的なところとかってありますか。
福間 今度の新版でオンダーチェ自身のあとがきが付いていて、それを読むと、結局オンダーチェって、ただテキストを頭っから書いていくということよりも、いったん書いたものをどういうふうに編集するか、いかに組み立て直すかっていうことが大事だと思っているし、それを楽しむタイプであり、あの、映画の編集者とやった本でもしきりに彼が言っているのは「映画の編集と小説を書くことは同じだ」ってこと。
福間 そういう感じ方をしている小説家が、あるいは詩人がどれだけいるかわからないけれど、要するにこの人は、詩を、1回書いたものを組み立て直すとか、編集するとか、そういうことを随分やっているので、ある意味部品として、こう、それぞれがくっきりした要素を持つっていうことが大事なのかなっていうか。ここを頭においても、後ろにおいても、また全然違うところへ行ってもいいような要素から成り立っているのかなというのが、ひとつ特徴としてある。
小泉 映画で言うところの、カット、みたいな。
福間 そうです。これ、原書の昔の版ですごくいいんです。話が前後するけど、国書刊行会から出た単行本はこの版から作った。でもそれもその通りにはならないよね。だけど、これをイメージして、ここから作ったので……。
小泉 国書刊行会のやつは、ページの組み方や写真の入り方がコラージュっぽい感じですよね。
福間 2008年にヴィンテージ・ブックスから出た『ビリー・ザ・キッド全仕事』はこれとはだいぶ違うの。普通の組み方に変わっている。前の版から考えて作ったものを落とすのが惜しくて、そのデザインを今度の白水社Uブックス版にも使っているんだけどね。元々の原書のデザインは、ええと、簡単に言うと、ヨーロッパ的なエレガントな美意識とは全然違う。ごつごつした要素があるとか、ラフな感じ?そういうのを大事にしているなと思えるし、僕の趣味にもぴったりだったので。英語だともっとそう感じるけど、わざとぎりぎりの感じに詰めちゃって、下が変に開いちゃってもいいみたいな。この無造作な、でも実は明らかに新しい感覚のデザインだった。それを言ったついでにもうひとつ言うと……。僕の恩師の言ったことが僕につよく残っている。もともと東京都立大学って、もう英米文学の翻訳の大家がたくさんいるところで、その中でもいちばん習った先生が篠田一士って人だったの。で、彼のいちばんの名言っていうのがあって、「詩はね、見ればわかるんだよ」と。「その国の言葉なんてよくわかんなくてもじっと見ていればわかるよ」なんて言うような、いい加減というか、豪傑タイプだったんだけど。で、結局アルファベットの詩っていうのは、言葉がわからなくても、字の配置で音が見えてくるっていう感じかな。音が見えるでしょ?
小泉 音が、見える。
福間 だからまあ、表意文字じゃなくて表音文字で、デザイン的に字を配置することが重要になってくるっていうか。表意文字の場合とは違う。表音文字ではどこかで、音が形を取るというところがあってね。この感じを、できるだけ、このまま持ち込みたかったなあというのがあったですね。いつも詩はできるだけ、そうするんだけど、特にオンダーチェの場合はそうかなと思ったんだけれども。これは割とそうだ、その通りにやったんだ。
小泉 『イングリッシュ・ペイシェント』でアルマーシがヘロドトスの『歴史』を手帳代わりに使っているっていうのがあって、本を手帳にするってかっこいいな、どの本がいいんだろうなんていろいろ考えるんですけど、これだけ余白があると手帳によさそうですね。
福間 詩集って意外とそういうものかもね。だからなんていうのかな、これは、ひらがな多めってことだったかな。そうでもないか。
小泉 そうでもないですね。
福間 まあ、そうね(笑)。
間抜けな直訳、ツボを外しかねない意訳
小泉 この『ビリー・ザ・キッド全仕事』で、詩が読める!という気になった、しかもすごく楽しく読んだんですけど、そのあとオンダーチェをどんどん読んでいこう、と。で、『ライオンの皮をまとって』。これは『ビリー・ザ・キッド全仕事』より、もうちょっと、小説っぽいじゃないですか。で、だから、小説っぽくなっている中で、より一層、詩のようなフレーズがまだ残っているとハッとするというところがあったんですけど。これはどうでしたか?福間さんがオンダーチェご本人に「やります」と言ったという感動的なエピソードがあとがきにありましたが。
福間 これは僕がウェールズに1年いたときに、水声社の人が手紙をくれてやってくれないかと言ってきて。まあ、やってみようと思ったんだけど、その人がやめたりして、実はこれは、最初に言った人、次に担当になった人、その次に担当になった人、3人、4人くらいの編集者がかかわっているような仕事になっているんだけど、まあ、難しいことは難しくて、こんなに量もあるしね。どうだったのかな……。ちょっとやりかけたけど、また暇になったらやろう、なんて言っていて(笑)、そしたらオンダーチェが日本に来て、僕は『ビリー・ザ・キッド全仕事』を訳した人間として彼に会って、その時にそういえば今、やりかけてるんだけどって言ったら、ああそうだ、あれはまだ訳されていないからみたいな話になって、それでもう、やらざるをえないなと。
小泉 オンダーチェに会ったことでやらざるをえなくなった。というか、オンダーチェって日本に来ていたんですね!
福間 カナダ大使館かなんかで、カナダの文化人を日本に呼んで、というようなカナダ大使館のイベントの中でっていうことだったので、どうだったのかな、彼ひとりのためだったのか、どうだったのかな。でも、あの、カナダ大使とか少人数で食事をする場面っていうのがあって、それに呼んでもらって、僕も気を良くしていろいろしゃべったっていう記憶がありますよ。
小泉 オンダーチェって、どんな人でした?
福間 けっこう、感じは……これは、みんなも言ってたんだけど、僕と見た感じは似ていた……(笑)
小泉 見た感じが似ているとは……(笑)。フンワリとした雰囲気が……(笑)
福間 映画が好きだっていうのも同じだったし。
小泉 オンダーチェが映画の影響を受けているっていうのは、先ほども話に出た『映画もまた編集である』を読んで、なるほどと思いました。
福間 彼はね、若い頃は映画も作ってたんだよね。でもそれは全然観ることもできないみたいなんだけど。
小泉 福間さんも映画を撮って、詩を書いて、教えて……と、やっているじゃないですか。だから雰囲気が似てくるんですかね。
福間 そうね。似てくるかどうかわからないけど(笑)。それと、こう、半分アジア人っていうことがね。半分以上か。アジア人だもんね。アジア人でイギリスの教育を受けた人みたいなことで、僕らが英文学をやった感じともつながっているし、どこかで、欧米文化に対する反抗の意識と影響、そういうことがずっと、ビリー・ザ・キッドからずっとそうなんだよね。そういうところが、まず共感するところだし、感じ方も、なんていうんだろう。泥臭いものをどこかに持っていて、でもそれをけっこうかっこよく出すというかな。
小泉 泥臭いものをかっこよく出す!たしかに、美しく描きますよね、なめし革の労働のところとか。
福間 うん。
小泉 移民文学という中でもちょっと特異な位置というか。
福間 だからあれ、翻訳の話で言うと、どうなのかな。今日言われて、これがどちらも初期のものだったっていうことだっていうことは一応あるんだけど、じゃあ、最近の彼が本当に洗練されているなめらかな英語を書いているかというとそうでもないのかな、という気がしていて。
小泉 そうなんですか!ぐんぐん洗練されて、円熟しているのかと思っていました。
福間 特にこれは後になって気づいたんだけど、このゴツゴツ感をできるだけ殺さないっていうのを、しつこく考えてやったところがあるんだけど。
小泉 『ディビザデロ通り』とか『名もなき人たちのテーブル』とかを読むと、もう、小説としてうますぎて、うまいじゃないか!うまいじゃないか!と思ったんですけど。
福間 それがでもね、ここはあんまり起こさなくていいけれども、ちょっと他の訳者は、やっぱりなめらかに訳しすぎている……。
小泉 なんと。それは起こさないといけない部分では……。
福間 ま、それはちょっと微妙なとこでね、ええと、最近の作品については、確かに英語もああいう印象って言えば、ああいう印象かな。ああいうってのは、翻訳から受けとる印象のことです。うーん。言っちゃうと、最近のものじゃないけど、他の人の翻訳では、オンダーチェのいい感じが出ていないなと思ったのもある。
小泉 オンダーチェの詩から小説へ、というあたりで言えば、福間さんが訳してもよかったものがありますよね。
福間 んー、まあね。
小泉 そういうとき、俺がやる!とかってできないものなんですか?
福間 もうどっかで決まってたことだったろうけど。まあ、要するに、翻訳をどうするかで、ひとつの考え方としては、直訳性の良さっていうのは大事にしたいっていうか、せっかく英語でこう書いてあるっていうものをね、意味がこうだって簡単に意訳にしてしまわないほうがいいだろうと、その表現にこだわった部分っていうのがね。その一方で、そうやって直訳にすることで文学として、ふくらみ、表現としてのふくらみっていうのがなかなか出てこないってこともあるから、意味を簡単に言ってしまう意訳じゃなくて、本当の言葉自体の力を伝える意訳的なものっていうのが必要だとすると……。そうすると、間抜けな直訳とツボを外しかねない意訳っていうのが世の中には多くなっちゃうんで、で、自分もそういうふうにやってしまうんで、そこをどう出すかで、『ライオンの皮をまとって』もけっこうね、1回訳してから、また校正でかなり赤くなっちゃったかも。
小泉 それは、福間さん自身がゲラをみて「ああ、ダメだ、違う」ってなるのか、編集者のかたからツッコミが入ったりする?
福間 『ビリー・ザ・キッド全仕事』については、それがあったよね。藤原さんと相談してやった部分がけっこうある。『ライオンの皮をまとって』はそういうことはなかったかな。
詩と散文的なもののぶつかり
小泉 さっき、福間さんの詩の先生が、意味がわからなくても見ればわかるみたいなことをおっしゃったという話と少し似ているかと思うんですけど、私、大江健三郎が好きなんですね。大江健三郎の作品の何が好きかって、まあ、小説が好きなんですけど、小説の中によく詩がでてきて、それもただ、デコレーションのように引用する、ちりばめるというだけではなくて、登場人物がイェーツを読み込んでいたりする。そしてその詩について自分らが陥っている状況と照らし合わせて、解釈したりするんです。そういう中で、詩の読み方として「意味は分からなくてもいいから暗唱できるまでまずは覚えること」っていう読み方が示されるんです。やっぱり、さっきの話とも似ているかなと思うんですけど、詩というものは、意味の理解より先に、まずはそのまま受け入れて……という読み方があるのかなと。だけど、普通に本を読む、いわゆる読書というやり方、頭の使い方の延長で詩を読むと、意味を求めて「読んで」しまいますよね。全然だめなんだな、と思って。なぜかオンダーチェだけは読める、と。あと、大江の小説の中で解釈込み、大江の小説を読む行為の中に入れこまれているイェイツなら読める、とかくらいなんですね。詩の読み方って、どうすればいいんでしょうかね。どうやって読むのか。
福間 大江さんや中上健次のように文学として出発するときに詩も書いていたというか、その後も詩を少しずつ書いていて、というのは、いいよね。大江さんも詩集を出すって言っていた。なかなか出ないですけど。中上健次も最後に詩集を出すと言って、結局出たのか出ないのか……。でもまあ、全集の中には詩が相当ある。大江健三郎も最終的にはそうなるかもしれない。そういう人にとってはやっぱり詩が、表現のおおもとのところにある。自分の詩じゃなくても、大江健三郎の場合は、ああいうふうにいろいろな詩人のイメージを使って書いているってことがあるんだけど。欧米っていうか、外国語の詩を日本語の中にどう入れるかっていう点でね、大江健三郎について言えば、ほとんど、彼としてはある意味では、規範的にいい日本語を崩すくらいに、そういうものを入れてきた人かもね……。後期の大江健三郎の日本語は、変と言えば変なんだけれども、要するに思い切り欧文脈を日本語の中に取り入れちゃうっていうかね。そういう感じだと思うし、中上健次は逆にそれをもっと日本的にねじ伏せちゃうみたいな感じがあったかもしれない。
小泉 大江健三郎の場合は、小説の中に詩が入っていて、詩を読むことで詩をどう読んだかでストーリーが動いていくみたいな書かれ方で、それで、そういう意味で、要は一緒に読書会に参加しているような気持ちになっていたんですけど、オンダーチェは違うじゃないですか。詩が、崩れて、今小説っぽくなりつつありますっていう文章を読む。こういう作家って他にいないのでしょうか。
福間 まあ、いないけど、今回彼は『ビリー・ザ・キッド全仕事』の新版のあとがきで、一応、ゲーリー・スナイダーや、ケネス・パッチェンの仕事を引き合いに出している。アメリカの詩はどこか日本やヨーロッパの詩よりも散文に近い要素を持っていて、詩で物語を語ることは、もともと伝統的にバラッドってものがあるけど、それ以上にね、詩で世界を組み立てるというか、小説的な宇宙を詩で組み立てるっていうことは、オンダーチェ以前にもあったんだろうなとは思うけど、でもそれまでのそういう人たちの仕事以上になんかこう、詩と散文的なものがぶつかり合っている、入り組んでいる状態になっているよね。
小泉 『ビリー・ザ・キッド全仕事』を初めて手に取ったとき、これ、読めるかなあ、大丈夫かなあと思いながら、読んだんですけどね。いちばん最初に献辞があり、タイトルがきて、短い、事務的な手紙の文章が入りますよね。それで次に初めて詩らしきものが出てきます。
これらが殺されたものたちだ。
(おれによって)―
おれの昔の友だち、モートン・ベイカー。
…というところで、ぞわーっとして。このあたりでいきなり引き込まれてしまった。でもこれもオンダーチェの編集の力ですよね。このカットをここに持ってくるとグッとくるぞ、みたいな。すごくいいシーンだけ集めましたみたいな映画を観ているような気になるんです。
福間 まあ、オンダーチェのようにやっているという人はいないし、オンダーチェに匹敵するように詩と散文が組み合わさって、あるいは散文を書いても詩がずっとこう残っているというような状態はね、なかなかないかな。逆にね、19世紀的な小説っていうのを考えると、小説がどんどん進化していった時期っていうのが、ディケンズとかドストエフスキーとか、けっこう中に詩がたくさん入っているなという気もするんだよね。
小泉 ああ、そうか。
福間 うん。そういうふうに思える。だから村上春樹もそういうところがあると思うけど、あとスティーヴン・キング。スティーヴン・キングも19世紀的な小説を現在に蘇らせるためには、ああいう、怪奇的な恐怖的なものにしなければできないと思ってやっているわけだけども、それと同時に19世紀的な小説を引きずっている。彼が引きずっている詩的な要素っていうのがどこかにあって、『IT』とか。
小泉 『IT』に詩的な要素が。意外な気がします。読み直さなければ。
福間 『IT』はITというものからしてすごく詩的だし、詩も書いているんですよね。村上春樹も詩的といえばそうだったかもしれないところがあるけど、今はそれをすごくきれいに混ぜちゃうから見えないよね。村上春樹の『1Q84』にどういうふうに詩があるかっていうと、あってもあまりこう、詩としての負担感がない。詩はどうしてもやっぱり、読む人に抵抗感を覚えさせるところがあると思うんだけど、そしてそれがあるから村上春樹はすごいんだなと思うんだけど、それが感じられないくらいにきれいに溶け合わさっている例。
小泉 だから気づかないのか……。だから、たぶん、福間さんは詩がわかるサイドとして読んでいて、詩センサーが反応すると思うんですけど、詩を読む筋力、詩筋が衰えていると、そこで詩センサーが反応しない。気づかないみたいなところはあるのかなと。
福間 うーん。
小泉 私はオンダーチェはわかるんです。オンダーチェだけがわかる。それで世界で一番好き、みたいな。それなのに、オンダーチェはどんどん小説家としてこう……
福間 そうだよね。
小泉 円熟という感じになっていってしまって……。もうこっちには戻ってきてくれないのかしら、とか。
福間 うーん。でも、独特な詩に対しての意識があって、詩がただ詩であることについては不満があるみたいで。
小泉 詩がただ詩であることは不満。なるほど。
福間 あの、詩集を最近出してますよね。そのタイトルが『The Story』っていうタイトルなんですよ。
福間 物語、というタイトルで詩集を出してる。実物を見てないけど、ちょっと前に。
小泉 それは福間訳で読みたいですね……。訳してから、オンダーチェの詩を読んだっておっしゃってたじゃないですか。その時はどうでしたか。詩人として。
福間 うーん、そうねえ。詩人としてすごいかというよりも、この詩は物語を引き寄せる詩なんだなっていうふうに思った。僕らがディラン・トマスとかオーデン、イェーツもそうですけど、それを読んできた感じからすると密度が足りないかなと。
小泉 密度が足りない。
福間 ポップな要素はあるんだよね、もともと彼はね。レナード・コーエンが好きだっていうことがやっぱり、関係あるのかなあ。
小泉 福間さんが追記で「これに刺激を受け、自分もこういう本を作りたいと私に伝えてきた詩人や表現者が何人かいた。私自身もそう夢見たことがある。しかし、本書に匹敵するようなものが実現したという例はまだないだろう。」と書かれていて。ちょっとグッときました。
福間 これを訳してから20年以上が経っているんだけど、自分もそういうことを思っていたのに、なんかそれを、ちょっと忘れてたっていうか(笑)。
小泉 忘れてましたか(笑)。
福間 やっぱり、詩というものが生きていくひとつの方向だと思うんだけどね。でもなかなか、この、詩と散文を組み合わせて一人の主人公の物語を作るといっても、そういう、オンダーチェにとっての、ビリー・ザ・キッドみたいな存在ってそうは簡単に見つからないだろうみたいなね。そういう気がする。
小泉 題材の選び方がすごいですよね。
福間 うまく出会えたっていうかね。
マケドニアを探して
小泉 『ライオンの皮をまとって』の話をもう少し聞きたいと思います。
福間 これは本当にすごいよね。
小泉 こんな大変なものを毎日、訳していたら、頭の中が、……えっと、毎日、訳してましたか?
福間 そうだったかな…(笑)
小泉 そうすると、頭の中のモノローグがこんな文体になってしまいませんか?日々の暮らしで考えることが、もののとらえ方がオンダーチェっぽくなっちゃったりしないんですか?
福間 うーん、そうねえ。これ、今見てもかなり入り込んでやっているというか、僕が今、普段自分で書く日本語とは違うという感じがすごくするなあ。
小泉 こういう翻訳をすることが、福間さんが自分で書く日本語に影響を与えている、多かれ少なかれあると思うのですが、そういう感覚ってありますか?
福間 そうねえ。うーん。僕はだいたい、規則正しく仕事をしたりしないんだけど(笑)、『ライオンの皮をまとって』に関しては規則正しくやったんでね。この前後、この後っていうのは、これを訳していたときのリズムっていうかね、そういうものが文章という前に生活のリズムとして残ったということはあった(笑)。
小泉 生活が規則正しくなったんですね。
福間 うん。それから、本当に、官能的な、エロティックなところと、プロレタリア文学的な労働の大変さというのがすごくて、なめし革のところは本当にすごかったよね。
小泉 あれはすごいですよね。
福間 家に帰っても匂いが抜けない。
小泉 材木系の労働も出てくるじゃないですか。ダイナマイトを使って爆破したり、木を斬ったり、流したりと。ジョン・アーヴィングの『あの川のほとりで』も出てくるんですが、それですごく面白いんですが、労働の描かれ方が全然違うんですよ、材木の描かれ方が。
福間 アーヴィングも本当にすごい作家なんだけど、アーヴィングは意外と飽きちゃうっていうか、ある種の単調さがある。僕、もしかしたら、どれも読み通してないかもしれない、アーヴィングのは(笑)。
小泉 そんなにすぐ飽きますか(笑)。まあ、アーヴィングはある種の類型があるというか。こんなに変わらない人もいない。オンダーチェは逆に変わらないことがないというか。
福間 こんなに、ビリー・ザ・キッド以来の何かね、そう普通じゃないっていうものがあるっていう気がするよね。最近の3作のように整ってきていても、部分部分がすごく。
小泉 ただ円熟したくらいに思っていたのですが、ちょっと浅い読みでした。
福間 長編としては弱い要素があるかもしれないけどね。全体よりも、部分的にできているもんね。それが合わさっている、連作的でしょう。でもその連作性が資質としてある人なんだろうなと。で、僕、マケドニアに行ったでしょう。
小泉 ええ、行ってらしたみたいですね。それはこの翻訳のために?
福間 それもそうだけど、外国にいろいろ行くのが好きだということもある。でも主にスペインとポルトガル。スペイン行っていた時期、ポルトガルが中心だった時期とかあるんだけど、このときはちょっと違うところに行ってみようということで、よし、マケドニアに行ってみようと思ったんだけど、あまり知識がなかったもんだからね。この小説に出てくるマケドニアの部分って、今、ギリシャ領なんだよね。
小泉 あー。
福間 それに気がつかずにマケドニアの中を探したら、ない(笑)。どこにあるんだっていったら、ギリシャの中だと。でももう名前も変わっていてね。
小泉 そのままオンダーチェの小説に出てきそうなフンワリしたエピソードですね。
福間 ギリシャが1910年くらいに占領したままに、マケドニア側からいえば、奪われたままになっている地域だった。でもそこからはカナダに移民する人が多くて、その近くの村の出身で、カナダに行ったんだけどたまたま里帰りしているという人に会って話を聞くことができて、ああ、そうなんだと。
小泉 福間さんは、ウェールズにいたとか、スペインとかマケドニアとか、わりと世界中をうろついているというか、これまでの旅路について教えていただけますか。まず、ウェールズっていうのは……。
福間 『ライオンの皮をまとって』を訳す前だね。ディラン・トマスとかケルト文化の勉強のために行ったんですけど。1年間。文部省の何か、そういうんだったんで、ちゃんと言えないといけないんだけど(笑)。
小泉 はい(笑)。
福間 1998年から1999年にかけて行って。それで2000年にオンダーチェに会っているんだね。
小泉 ね、って他人事のように。
福間 で、たぶん、そのころは外国で好きなのはスペインで、フランスやイタリアにも行くんだけど、とにかくスペインに行きたくて、というのが割とあったかな。1980年代後半くらいから1990年代にかけてあって、98年から99年からウェールズに1年間いたので、その間もギリシャとかスペインとかドイツとか行っているんだけど。最近は、2005年くらいから、ポルトガルが中心で。
小泉 それは、文学的興味とは別なんですか?
福間 だいたいどっちかって言うと、妻がスペインが好きだったり、妻がポルトガルが好きだったりして、それに付いていくあたりから始まっているんだよね(笑)。
小泉 研究関係ないですね(笑)。
福間 英文学の世界もいいんだけど、アメリカはあまり行ったことはなくて、ちょっと前に35年ぶりくらいにニューヨークに行ったというのがあったけど。
ロック・フィーリング、日本人として
小泉 私は詩が読めないわけじゃないんだって、オンダーチェを読んで思ったんです。思ったんですけど、その先が続かない。この次、どこへ行けばいいんでしょうか。
福間 うーん。どうなんだろうね。
小泉 福間さんが好きだというディラン・トマスを読んでみようかな。他に何かお薦めはありますか。
福間 ディラン・トマスは翻訳を読んでもわからないかもしれないけど、松田幸雄さんの訳が今のところ、いちばんいいいかもしれない。ただ、ディラン・トマスもオーデンも、全部僕が本当は訳したいなと思っていて。
小泉 おお、それはぜひ。
福間 ちゃんとやってなくてあれなんだけど。日本でも、ある時期までは、外国の詩のおもしろさと、日本の詩人たちがそれと競争して書くようなね、気持ちってあったかもしれないけど、今はちょっとこう、分かれちゃってる。ボブ・ディランが詩人かどうか、ボブ・ディランの詩がおもしろいかどうかと言っても、今、みんな日本人が書いている詩とどうつながるかっていうと、なかなか、簡単にはつながってこないだろうということがあってね。僕はたまたま英米詩がおもしろいっていうのと同じくらいに、日本の詩もおもしろいんだけど、ただ、本当のことを言って日本の詩がものすごい好きかって言うと、そうでもないところもあるかもしれないくらいのところもあってね……。
小泉 そんな、詩人なのに(笑)。
福間 うーん(笑)。
小泉 英語で、詩を書こうと思われたことはないですか?
福間 いや、ありますよ、そりゃね。何篇かあるんだけど。
小泉 お。発表はされていないんですか。
福間 ないですね。そこまではやっぱり、なかなか。うーん。日本語の場合、日本の詩ってやっぱり特殊な面があるっていうかね。もともと歴史的にこういう詩があったというわけでもないしね。伝統、短歌、俳句っていうことだけじゃなくて、日本の伝統的なものとのつながりが問題になるところもあって、うーん……。
小泉 ざっくりとした話ですが、最近の若い人たちって昔ほど外国に対する憧れが、比較的、その私たちの世代、あるいは福間さんたちの世代に比べて弱いらしいのですが、私たちの頃、私たちっていうのもなんか大雑把すぎますが、今の若い人より古い人たちはもっと、外国のもの対する憧れがすごく強くて、外国の文化をむさぼるように吸収してきて、でも、そこで日本人として自分の創作にどうやって反映させるかっていうところで、どうしてもゴニョゴニョってなっちゃうところがあって。
福間 ねえ。
小泉 『ビリー・ザ・キッド全仕事』っていうのは、スリランカ出身のオンダーチェがビリー・ザ・キッドをモチーフに書くっていうのが、すごいなと。
福間 だからオンダーチェから学ぶとすれば、オンダーチェの中に、いわゆる正統的な文学に対して、ポップカルチャーとかそういうところから働きかけたいっていうことがあると思うんだけど、そのことが、彼の中の、もともと、アジア人であるという意識とか、西欧的なものに対する抵抗になる部分とかね、重なっているよね。単に純文学は退屈だからポップがいいということじゃないね、そういうだけのことじゃない、気持ちのこもった部分がある。さらに彼は恵まれた環境に育って、イギリスの教育を受けて、カナダに行ってからみたいな時間に対して、それがどういうものだったのか問いかけたいっていうのを、ビリー・ザ・キッドっていう、ある意味で教育を受けているはずもないし、アウトローとして生きた存在に仮託した部分。自分以外の者になるんだということがあり、自分が育ってきたのとは別な環境にいた者に出会っている。二重三重に入り組んでいるでしょう。それがおもしろいよね。で、僕自身も、英文学、結局は嫌いじゃないんですけど、その前にロックってものがあって。
小泉 なるほど。
福間 僕は、ロック・フィーリングっていうものが大好きっていうか、なくてはならないものなんですよ。
小泉 はい。
福間 それは村上春樹だってそうだって言ったらそうかもしれない。
小泉 カズオ・イシグロも。
福間 それと、イギリスの詩、英語の詩を読むことがつながっているんで。
小泉 具体的にはどのあたりのロックですか。
福間 ずっとなんだけどね。僕の子供のときから言えば、50年代のロックンロールから、プレスリーの初期から、その同時代的なもの、ジーン・ヴィンセントとかエディ・コクランから大好きなんです。
小泉 はい。
福間 その後の、ビートルズ、ローリングストーンズもレッド・ツェッペリンも好きだし、そういうものがよみがえるっていうのが何回かあったとすると、グラムロック、T・レックスが大好きで、パンクも大好きで、その後にニューウェーブ的な時代に入るんだけど、そこまでがよくて、そのあとからいまひとつ、乗っていけないかなっていうのがあったんだけど。
小泉 私が好きなのはそのあたりからです。
福間 もう70年代までにブルース・スプリングスティーンもみんな出てきちゃうからね。それが僕の30歳までみたいな感じになるんだけど、結局、エミネム以降のヒップホップに感応できたことで、もう、全部またもう1回、全部好きみたいになってきたんだけど。
小泉 エミネムで全部またもう1回、全部好きって、それは予期せぬ展開です、素敵です(笑)。
福間 ヒップホップはいろいろな要素があるけれども、ある意味でもう1回ロックンロールもリズム&ブルースも、それから今のアフリカ、ちゃんとつながってきているんで。で、そういうことに比べると、朔太郎がどうしたとかね、まあ、中原中也どうなのかな、とかたまには思ってみるけど(笑)、僕にとっては本当は大きくないかもしれない。
小泉 そのつながらなさ、熱量の違い、すごくわかります。福間さんの英語の詩を読んでみたい気がします。あ、でも訳してもらいたい。でもそれは、福間さんが書いた日本語の詩を読めばいいのか。ややこしいな。
福間 まあ、英語で詩を書くというところまで追い込まれてないってことかもしれないよね。日本がもっと小さい国で日本語で詩を書いてもそんなに読んでもらえないとかだったら、英語に訳すか、英語で書くということが、大きな要素になってくる。僕、実は最近スロヴェニアの詩人たちと親しいんだけど、スロヴェニアでは自分たちの作品が英訳される、あるいは英語版を作るっていうことが絶対必要になってきている。日本ではまだそれほどでもない。
小泉 意識している作家さんは多いと思うんですが、なかなか環境というか仕組みが整わないみたいなところが。
福間 日本はやっぱり、ここまで来ても日本映画も日本文学もしっかりある。その国のものがちゃんとない国に比べたらしっかりとあるので、じゃあ、日本の伝統的なものがつまらないわけじゃない、わからないっていうのも悔しいからちょっと考えてはみるけれども……うーん。どうしたものか……、だから時々そういう気持ちにもなるけれど(笑)。
小泉 はい(笑)。
福間 芭蕉、偉いな、とか思ったりして。たまにね。
小泉 「芭蕉、偉いな。」って。
福間 でも、たとえば、芭蕉とか蕪村とか好きなんだけど、これもだいたいどっちかっていうと、短歌的なもの、それより前からある日本の土壌的なものから抜け出すような、ある意味モダンな動き方ですよね。俳句の生まれ方ってね。そういうところがおもしろいと思うね。明治文学は、藤村とか、全然好きになれない。重苦しくて。
小泉 湿った布団みたいなところありますよね。
『ビリー・ザ・キッド全仕事』のほかにもいろいろ
小泉 今回の新装版ではどれくらい変わっているんですか?
福間 あまり変わってないですね。
小泉 見出しとか変わったとか書いてありましたけれども。
福間 架空インタビューのパートの見出しですね。あれはもともとのほうが変わっちゃって。今回自分で直したのは、数カ所くらいかな。うん。『東京日記』っていうブローティガンの本も同時に再版になるんだけど、あっちは、けっこう手を入れちゃったんだけど。
小泉 『ビリー・ザ・キッド全仕事』が出るっていうのは、オンダーチェの新作が出るからとかそういうことではなくて。ふっと担当編集の藤原さんが復活させようと思ったから?
福間 そうだと思うけどね。
小泉 藤原編集室さん、Twitterでいつも貴重な情報が流れてくるのですが、藤原さんって、藤原編集室さんなんですね。
福間 そうなの、そうなの。
小泉 気づきませんでした。Uブックスで出るよ、というtweetも、やー、良く知ってるなあ!と思ってたら担当者だったのですね。フリーの方なんですか?
福間 そうなんだよね。国書刊行会にいて、その後フリーになった。そういうことを言えば、水声社の社長も国書刊行会にいた時期があって、それから自分で今、水声社をやっている。あの一時期、国書刊行会でいろいろめずらしい本を出したとか、僕の同僚だった高山宏を中心にいろいろな幻想文学とかを紹介した時期があって、そのころの編集者だった人間がまた今、国書刊行会を離れていろいろやっているなという感じで。その国書刊行会の時代の前がたぶん白水社の「新しい世界の文学」のシリーズだよね。
小泉 『ライオンの皮をまとって』を出している水声社は国書刊行会の方がスピンアウトして作った会社なですね。
福間 「書肆風の薔薇」っていったんだよね。水声社の前はね。同じところなんだけど。水声社の社長の鈴木君とは、学生時代の友人で、藤原君はいちおう教え子なんだ。
小泉 そうなんですか!
福間 でもあんまり、教えたっけな?と思うような教え子で(笑)。
小泉 そんな(笑)
福間 高山さんの教え子なんだよね。高山さんの教え子っていうことは僕の教え子でもあるけど、教えたことあるかな……みたいな。同じところにいたっていうくらいで。
小泉 藤原さんの尽力で今回の新装版に至ったわけですね。すばらしいです。最近、出てほしい翻訳がなかなか出なくて。
福間 なかなか大変だよね。翻訳も大きいところでたくさん部数が出でるようなものをやれば別だけど、こういうのだと本当に労働的には割に合わない仕事。
小泉 …ですよね。でも、オンダーチェの詩集は出てほしいです、翻訳で。
福間 うーん。そうねえ。オンダーチェの他にも、本当に、詩集出ないよ。出ても、たとえば思潮社で出ても、その内側でしか知られないような形でしか出ないじゃない。
小泉 日本ってすごくきれいに本を作るじゃないですか。でも、ペーパーバックふうの、こういう感じでね。
福間 そうだよね。
小泉 今だったら、プリントオンデマンドってあるじゃないですか。Amazonにすごく持っていかれてしまうんですけど。あれで作ってみたんですよ。こないだ。ペーパーバックっぽくっていいなと思ったんですよね。それで少部数で。
福間 でもKindleも売れないんだよ、僕、Kindleで2冊出しているんだけど、宮本隆司さんの写真もたくさん入った、内容的にはありえないくらいの豪華版で、税別で230円なのに。
小泉 安すぎるんじゃないですか!
福間 全然売れない。
小泉 買います。すぐに買います。私は技術系の出版社で働いているんですけど、技術書なんかはわりとKindleで売れるんですよ。紙だと重くて分厚いので。だけど、詩集って手にもっていたいじゃないですか。ちなみに、これはプリントオンデマンドはしてないんですか。
福間 うん。思潮社でも、その詩集の出し方で売っているんだけどね。大して売れないみたい。でもまあ、『ライオンの皮をまとって』も売れてないからね。
小泉 こんな傑作が売れてないなんて。この本、本当にきれいな装幀で大好きなんですよ。この青。フィクションの愉しみ。これが売れないのはおかしい!
福間 これは、僕が思うオンダーチェの英語はこうだっていうのをやっているんだけど…うーん。ねえ?
小泉 そうですよ!
福間 『ライオンの皮をまとって』は本当に愛着があるんだよ。
小泉 本当に素晴らしいですよね。ハナも出てくるし。『イギリス人の患者』では薄かったハナのお父さん、パトリックが、こういう人だったんだ!っていう。シーンなんですよね。シーンが思い浮かぶ。印象的な映画のシーンのように、ずっと残っているんですよ。たとえば、尼僧が落っこちるシーン。
福間 あれもすごいよね。
小泉 映画になってほしいですよね。
きれいにいくか、ごつごつしているか?
小泉 訳しているときは楽しいっていう感じですか?
福間 『ビリー・ザ・キッド全仕事』はそれほど大変じゃなかったかも。『ライオンの皮をまとって』の方が大変だったかな。いろんなことが出てくるしね。あ、『ビリー・ザ・キッド全仕事』もそうだ。いきなり写真が出てくるし。誰か写真家に訊いて。なんか、全然知らなかったのね。いきなり専門的な用語で、現像の仕方とかさ。
小泉 今だったら、インターネットで済むことが。あとがきで「いろんな人に聞いて回った」っていうところがなんだかおかしくて。詩の部分ではなくて、そういう専門家の方に聞いていたっていうことなんですね。
福間 そうね。うん。うん。
小泉 『アニルの亡霊』もすごく好きなんですよね。
福間 きれいですよね。
小泉 きれいですよね。きれいなんですけど、『ディビザデロ通り』も『名もなき人たちのテーブル』はもっときれいですよね。オンダーチェが円熟したと。『アニルの亡霊』はもうちょっと、そういう意味では、きれいというよりは、まだ、詩の残滓が…
福間 もうちょっとゴツゴツしててもよかったかもね。内容から言ったってね、うん。
小泉 じゃあ、もし、福間さんがアニルを訳していたら、もう少しゴツゴツしていたかもしれない?
福間 そうかもね。
小泉 でも、本当に、あんなに実際に起きていた内戦のことをモチーフにしながら、あんなにファンタジーみたいな。
福間 やっぱりすごいよね。
小泉 あれは、あまりにも政治的でなさすぎるという批判もあったらしいんですけどね。福間さん、オンダーチェの詩集を訳したりしないんですか?
福間 そうねえ。オンダーチェ以外にも詩をね、もっと訳さないといけないなと思うとすると、オンダーチェは詩人としてそれだけ重要な存在かどうかっていうことはあるかもね。やっぱりこうなった人なんで。
小泉 そうですよね。小説へ向かっていったわけですよね。なんかオンダーチェはノンフィクションの雑誌とかもやっているんですよね。それはチェックしてないんですけど、詩集はいちおう、買っているんですよ。シナモンピーラーっていう詩集。こっちにも出てきますよね、シナモンピーラー。ちゃんと読んでいないけど。
福間 うんうん。
小泉 突破口は好きな人からですね。なんだか話があっちこっち飛んじゃいましたが、オンダーチェについては聞けたかな。
福間 オンダーチェは、僕も自信がなくなってきてしまうことがあって、意訳しないとだめかなと思うんだけど、さっきも言ったんだけど意訳しちゃうとやっぱり何かが抜け落ちる。そうならないようにギリギリまでどこまでいけるか。わかりづらいけどやっぱりこう言っときたい、みたいなところがね。『ライオンの皮をまとって』のときはね、遅いから、1章書いたらくださいみたいに付き合ってくれた編集者はもうできた時にはもういなかったのよ。その後、二人くらい交代しているので、あまり、こう、相談するっていうことがなかったから。今そう思うと、オンダーチェの具体的なものを見える訳にはできたかなっていうかね。いろいろな道具とかいろいろなものが見えるようにしたいっていうかね。動きと、アクションと、物が見える訳にしないとおもしろくない。
小泉 見えますよ!オンダーチェって、地雷とか、ダイナマイトとか、爆発するものに魅せられていますよね。なんかありますよね。
福間 そうだよね。
小泉 これは本当にいいシーンだけで作られた小説というか。
福間 いいシーンがいっぱいあって。でも、いきなりパン屋のシーンになったりするから。パン粉?今度はまたパンのこと考えなきゃなって、いちからもう1回考えなきゃなっていうことが多くてね(笑)。
小泉 え、ここでパン?パン粉?みたいな感じに(笑)。おもしろいですね。
福間 場面によって話題が全然違うんでね。マケドニアの料理も出てくるしね。
(終わり)